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No.10 山口精機株式会社

機械加工の現場から

異端は先端のはじまり
【「ラジオ屋」からの創業】

1950年(昭和25年)8月、山口竹好氏(先代社長)が、疎開先とした現在地の群馬県富岡にて創立した山二工業所が、現在の山口精機の前身である。

それ以前、山口竹好氏は東京の切削加工会社に勤めていた。根っからの技術屋である。

戦時下、東京は空襲で焦土と化し、引き続く敗戦、生産活動はほとんど途絶えた。戦禍で職場を奪われ混沌とした状況だったが、何かをしなければとの思いから、持ち前の趣味の技を活かして「ラジオ修理屋」を始めた。

ラジオ修理といえば、電器屋の仕事である。壊れたラジオを預け、後で受け取るのが通例だったが、山口竹好氏は、客を待たせることなくその場で故障を直したためたちまち評判となり、商売は結構繁盛した。

終戦から5年が経ち、日本は講和条約調印を前に国際社会への復帰を目指していた。東京では復興に向けての動きが活発となり、日々高まる鎚音に、切削加工で培った技術を活かせる仕事を求めた。当時、庶民の足として自転車需要が急速に高まった。そこで、自転車の「ベル」づくりに着目、これが山二工業所をスタートする仕事となった。

1951年(昭和26年)に民間放送が開始され、1953年(昭和28年)にはテレビ放送が始まった。次に思いついたのは、アンテナだった。

アンテナ製造は、ベルとは違って材料の手配から加工、組立までの一貫作業だった。一方、この間に、原子力発電用タービンブレード(動静翼)の加工も手掛けた。因みに、わが国初の原子炉発電が始動したのは、1957年(昭和32年)11月であった。

戦後の日本経済は、国土復興の本格化とともに、好不況の波を繰り返しながらも、神武景気、岩戸景気を経て、さらにいざなぎ景気へと続く高度成長への階段をひたすら駆け上がった。

その間、山二工業所では、偶々とびこんできた自動車関連からの引き合いを契機に、株式会社を設立、1961年(昭和36年)3月、社名を山口精機株式会社とした。アンテナ工場は自動車部品の加工工場へと変貌した。


【多量生産には無関心 】

そして時代は、単一のモノを多く造り、多く使う時代へと移っていった。

数をこなす仕事なら幾らでもあった。設備投資と人員の増加、持てる加工技術をフル稼動することで、会社はどこまでも伸びるはずだった。事業拡大に資金が足りなければ銀行が貸してくれた。より安全な道を選ぶなら、大手メーカーの系列に加わるという選択もあった。多くの町工場が時代の波に乗って変貌していった。

自動車部品では、得意とした試作によって量産化された製品があった。その勲功報奨ではないが、量産の引き合いがきた。しかし、山口竹好社長は乗らなかった。

「数モノはしない」、「銀行でもダメになる時が来る」、「系列には入らない」と言った。

当時(30年前)、誰もがその言葉には耳を疑った。

山口精機の仕事は、試作品づくりだった。

「そんなことでは儲かるはずかない」周囲の同業者はそう思ったかもしれない。

それでも、社長の考えは変わらなかった。毎回、試作の少量対応、難しいけれど儲けの少ない仕事と向き合った。常に新しい加工技術を考え、それに挑戦すること、それは同じものを多量に造ることでは得られないものがあった。

「モノは器や仕組みで造るのではなく、人が造るものだ、これなら誰も真似できない、たとえ他が追いついてきたとしても、そのときはもっと先へ進んでいる…」

想像の域を脱しないが、おそらくそんな考えが先代社長の脳裏にあったと思われる。

また、社長は現金取引にこだわった。自動車大手の得意先からは多量のロットを受けることもできた。だが、その支払いは手形となるケースが多い。社長はそれを嫌った。取引銀行は、そんなことを言っていては、会社は大きくならないと諫言した。それでも社長の気持ちは揺るがなかった。「たとえ振り出し先が一流会社でも、手形はただの紙切れにすぎない」そう言って、手形取引の仕事は断った。


【企業は人なり 】

先代社長の三男である山口隆夫代表取締役専務は、「会社にとって本当に必要なものは人、人材育成が第一」ときっぱり言う。この考えは、先代の竹好社長の考えを継承したものであり、二代目を引き継いだ実兄の山口耕一社長も同じ考えだそうである。

技術を持って人づくりに帰することは、人が、優れた技術を継承し、さらに研鑽し、蓄積することで他の模倣も追随も許さない。人が資産とは、まさに究極の答えである。

しかし、多量生産が高度成長の牽引役となった時代に、少量でも品質を第一においた切削加工の技術にこだわることは、異端に映ったかもしれない。

いま、わが国の製造力は崖っぷちにある。製造コストは限界に達し、一方、造り手である技術者に後継者がいない。そのため、安い労働力市場に製造拠点が移りだして久しい。これが工業国日本の空洞化といわれている所以である。

かつての技術途上国がポスト日本を目指している。もしかすると、もう追い抜かれているのかもしれない。大看板だった技術力もいつしか奪い取られようとしている。こうなってしまった原因は、高度成長のなかで選択されてきた多量生産というシステムに依存してしまったときから始まったのではないだろうか…。そう考えると、山口竹好社長が当時の時流にあえて沿わなかったのは、時代の先を読んでのことと伺える。

ところで、再び昭和40年代に遡るが、高度成長時代の波に乗った他工場は躍進した。

40年代半ばにさしかかって、山口精機も思案の時を迎えた。生産力を伸ばすためには工場の増設しかないのでは、という意見が持ち上がった。いまなら、隣地を買収することができた。が、社長はそれを断念した。かわりに工場に日立のタレット旋盤・カズヌーブ旋盤が入った。それを皮切りに続々と機械が導入された。

さらに、周りでNC旋盤が使われ始めると、NC旋盤を導入した。オークマ製だった。理由は、OSPの操作性にあった。以来、主力のNC旋盤はオークマと決まった。

工場の増設を見切って、かわりに工作機械を導入した背景には、新しい機械を使うことによって、技術者を育てたいという山口竹好社長の信念があった。

今年の3月から、「心のケア」として、従業員のメンタリングを行っている。これも、技術の伝承と同時に人間育成をサポートする取り組みとして位置づけられている。


【時代の変節がもたらすイノベーション 】

昭和40年代後半、日本に一つの変革期が訪れた。石油危機である。それまで高度成長の牽引役を担ってきた自動車業界は、打撃を受けた。

山口精機は、自動車オンリーからの変節を決意した。ちょうど新たな仕事として引き合いのあった重電機部品などの加工を加えた。少量受注ながらも試作づくりにひたすら加工技術を研鑽してきたことが、まったく新しい分野にも対応できる力として備わっていたのである。これが山口精機にとって二度目の変節となった。

以来、自動車から重電機、そして油圧・空圧部品へとレパートリーを拡大した。そのほんとどが開発に伴う試作品で、ロットは少量だった。これにこだわったのは、やはり竹好社長で、頑固なまでの技術者精神だった。支えたのは、工場で切削加工の技を磨いてきた従業員たちだった。そこに、工場増設を躊躇った後に導入したオークマのNC旋盤があった。

現在は、さらに流量計部品、宇宙航空部品も扱っている。試作加工での材料は多様な金属からプラスチックまで、形の大小にかかわらず切削加工している。こうした複雑な加工となるとマシニングセンタが欠かせない。

山口精機にオークマのマシニングセンタが導入されたのは、今から15年程前、1986〜7年(昭和61、2年)頃だった。それまでの山口精機は「旋盤屋」だった。

この時も、受注に窮していたという背景があった。より複雑な加工もできることを売りにマシニングセンタを導入したものの、旋盤屋というイメージを払拭するのは難しかった。それでも近くの自動車メーカーへ行き、マシニングで加工する受注をきっかけに、より複雑な加工、難しい技術への挑戦が再び始まった。これが、山口精機にとってのいわば第三の変節機会となった。ちょうどこの時、会社に入ってマシニングの操作に携わったのが、現在、第三世代のリーダー役となっている山口和之取締役製造部長(山口耕一社長の長男)だった。

多様化、高度化する顧客ニーズに対して、高精度、高品質、短納期で応えられる体制の基礎は、こうして形成されていった。まさに「窮すれば変じ、変ずれば通ず」である。


【変種変量から開発力へ 】

近年、わが国の製造業において、「多品種少量」への生産シフトが取り組まれているが、山口精機にとってはこれまで一貫してきた取り組みに過ぎない。今は、多岐にわたる製品の加工分野において蓄積した技術を活かし、どのような要望にも応えられるよう「変種変量に対応している」と山口和之製造部長は言う。

「変種変量」とは、多様なニーズに品質至上で応え、多品種少量と多量生産の双方の利点を巧みに取り持つとの意味も込められている。試作品は自社工場で徹底管理する。一方、多量生産に必要なら20社程ある協力会社の助力を得て行う。また、突発受注にも対応している。いずれも持てる技術とその運用管理によって成り立っている。それが「変種変量」対応、山口精機にはぴったりの言葉である。

現在、常時取引のある顧客は14社程に上っている。加工業の顧客先として少ない数ではない。また、それゆえに加工品目は多岐にわたり、特定品種に偏らないよさがある。一点集中によって被ることの多いリスクが軽減されるのである。

ところで、これはまだ最近の話だが、自動車メーカー各社が開発・改良にしのぎを削っている次世代燃料電池車がある。この部品の開発試作の引き合いがきた。ところが、引き合いが出ても、肝心の試作図面が示されなかった。切削加工を請け負う立場としては、図面がなければ仕事ができない。話を詰めていくと、先方は試作図面も求めていた。そこで、山口隆夫専務のご子息である山口正好氏(現、第2工場工作2課に所属)が図面を作成して先方に提案、現在その試作に掛かっているという。

加工を請け負う側から、設計図面を顧客先のメーカーに提案し、それに基づいて試作加工が行われるのは極めてめずらしい例といえる。しかし、これからの加工業に望まれているものは、こうした取り組みなのではないかと考えさせられる例だ。山口精機の場合、すでにそれができる技術と開発力、そして意欲が備わっている証でもある。これも、先代から受け継いできた「技術の人づくり」の成せる結果なのだろう。