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ユーザー訪問:No.11 株式会社ニシムラ

No.11 株式会社ニシムラ

機械加工の現場から

インタビュー
創業と倒産を重ねた先代の最後の仕事

金型とお伺いしましたが、どのような金型でしょうか。

木下社長

自動車関連の部品用が中心です。

創業といいますか、会社設立のいきさつをお聞かせ下さい。

木下社長

創設者は私の親父でして、もともと東京で商社をやっていまして、親のことをこう言うのも変ですが、それはもう何事にも剛胆磊落で、先見性が人一倍たけた一面と、逆にいい加減な面とを併せ持っていました。親父は、自分が創業した仕事が軌道に乗るとすぐに稼いだ金を遊びに遣ってしまうのです。そんなわけですから、一旦成功した仕事も長続きしなくて、だいたい2、3年に一度の割合で会社を創ったり潰したりの繰り返しでした。挙げ句の果てにあちらこちらを転々として、最後の倒産は、親父が40代後半に入ったときで、私は高校に進学する直前でした。それを機に、親父は名古屋で自動車関連のゲージの仕事に就きました。

商社畑の方が、いきなり技術職ですか。

木下社長

商社経験からのはったりと、持って生まれた器用さが効を奏したのでしょう。それに、祖父が技術畑の人でしたから受け継いできた血があったのでしょうね。見よう見まねで仕事を覚え、やがて社内外注と言う形で仕事を請け負うようになりました。

それは、現在の金型製作にもつながっていますか

木下社長

ええ、ただ私は物心ついてからというもの、親父と一緒に暮らしたという記憶が希薄で、母との二人だけの生活が殆どでした。親父が帰ってくるときは、必ず事業に失敗して逃げてくるときと決まっていて、その後は直ぐに転地するという具合でしたから、小学生の頃は1年と同じ学校に通ったことがないという有様でした。そんな親父でしたから、今度もどうなるものかという思いはありました。しかし、40半ばを過ぎてもう後がないと腹をくくったのでしょう。裸一貫で勤め、社内請負から徐々に仕事を増やし、やがて刈谷でボロボロの貸工場を借りて周辺の中堅企業からの仕事を受注できるようになるところまで来て、ようやく父は天職を得たと私は感じました。

とてもご苦労をなさったのですね。しかし、先代は負けても屈することなく、色々なビジネスにチャレンジされてこられたということは、それだけ向上心をお持ちであったということになりますね。

木下社長

その頃、私は高校へ通っていましたが、ボディーゲージやテンプレートの製作で仕事が忙しくなってきたのか、親父は私に手伝え、手伝えと催促するようになりました。夏休みはもちろんのこと日曜日もほとんど工場で手伝わされました。大学へ入って後も、工場の手伝いにかり出される毎日でした。

先代は、豊田市に工場を置かれた後、株式会社西村製作所として法人化されたわけですが、当時の受注先はどのような会社でしたか

木下社長

初はボディーゲージやテンプレートが中心でしたが、やがて東急グループのシロキ工業さんの下請け先からお仕事をいただく機会を得まして、フォーミングロールとか、それに対する付帯設備関係の仕事をするようになりました。さらに、フォーミングロールの端末部分とかを処理するプレス金型の方へと発展してきたというわけです。

それが「精密金型のニシムラ」の名を築いてきたプロセスの序幕だったというわけですね。学校を出られて後は直ぐに会社に入られたのですか。

木下社長

高校生の頃から工場での仕事には馴染んできましたから、現場仕事については熟知していましたし、図面を描いたりお客さまとの打ち合わせをしたり、全てひとりでやりました。私が24才で、親父が49才のとき、突然、親父が一線から引退して私に会社の仕事を全て任せると言い出したのです。当時の私は、仕事をしても幾ら代金を請求したらよいのかさっぱり分かりませんでしたから、親父に相談したところ「うちの職人は並だから、作業時間を見て正直に決めればいい」と聞かされ、以来、見積もりから伝票類までの全てを自分でやるようになりました。

その歳で、工場の経営は難しくありませんでしたか。

木下社長

実は、私に全て任せると言いましてもそれは表向きのことで、財布の紐は相変わらず親父がしっかり握っていました。月末には収支報告のため、親父のところへ行くわけですが、もう頭ごなしに「お前は馬鹿だ、能無しだ、こんな程度しか儲けられないのか」と怒鳴られました。当時はそんな筈はないのになぁという思いで親父の叱咤を受けていましたが、取り立てて反論するということもなかったですね。