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ユーザー訪問:No.16 株式会社 和田製作所

No.16 株式会社 和田製作所

機械加工の現場から

1.下町の航空宇宙工場
【名古屋といえば】

名古屋には、港区大江町に三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所(略して、「名航」)がある。三菱重工業といえば、わが国初の国産旅客機として知られるターボジェット「YS-11」を誕生させた日本航空機製造(発足当初は、輸送機設計研究協会といっていた。1957年〜1982年)の中核となって尽力したことでも知られている。

YS-11は、昭和37年(1962年)7月に新三菱重工業(株)小牧工場での1号機がロールアウト、翌月の8月30日には、名古屋空港で初飛行に成功している。

因に、昭和36年(1961年)6月に官民共同出資で設立された特殊法人日本航空機製造に参加した企業は、三菱重工業のほかに、富士重工業、新明和工業、日本飛行機、昭和飛行機工業、川崎航空機工業(現、川崎重工業)の計6社である。

現在の三菱重工業の航空機製作事業としては、ボーイング社の700系ジェット旅客機の生産や、種子島から打ち上げられるH-I、H-IIA型ロケットの開発・製造などを行っている。また、最近では国産コミュータージェット機の開発・製造にも積極的に取り組んでいる。むろん、防衛用の航空機なども主力製品としてあげられる。

【航空機の系譜】

戦前、三菱重工業でエンジンの木型製作を担当していた和田重雄氏(和田製作所の創業者、先代社長)は、戦時中、外地に出征していたが、昭和20年(1945年)8月15日のポツダム宣言受託による終戦で帰国、名古屋へ戻った。しかし、職場復帰もつかの間、同年11月18日に連合国占領軍総司令部 (GHQ) は、日本に対して民間機を含めた航空活動、生産、研究、実験などの一切を禁止した。以降、GHQの許可無くして模型飛行機ですら飛ばすことはできなくなった。これによって航空機製造の仕事は完全にストップしてしまった。エンジンの木型に携わって来た重雄氏の技術を活かす場は、なくなった。重雄氏は、がらんどうとなった職場を後にした。

昭和30年(1955年)10月、重雄氏は、これまでの経験を活かした治具製作所を創業。これが、現在の和田製作所の始まりとなった。

そして、しばらくすると重雄氏の航空機に対する思いが天に通じたのか、この間に勃発していた朝鮮半島での動乱を契機として、日本を取り巻く環境は一変した。米軍航空機の整備需要が高まる一方、日本は自立と国際社会への復帰が認められ、渡航用旅客機の整備などが求められるようになった。


【甦る空の産業】

昭和31年(1956年)、講和条約が交わされ、日本はやっと占領軍の制約から解き放たれた。この年の5月30日、日本は「中型輸送機の国産化計画構想」を発表した。いわゆるこれが先述した「YS-11の基本構想」だった。

時流を受けて、戦前からの豊富な実績を持つ三菱重工業の航空機事業は再び甦った。

この時期の和田製作所の発足は、タイムリーだった。重雄氏の知人や同業者などのつてもあって、これまで勤めてきた三菱重工業から仕事を受けることができた。

当初、エンジン関連の治具が主だったが、途中から航空機の板金型の仕事を受けるようになった。こうして和田製作所は三菱重工業から、航空機関連の治工具の仕事を中心に受注するようになり、今日、「名航」の治工具部門のメーカーとしてCAD/CAMによる部品や治工具の設計・製造にまで至っている。いわば、三菱重工業航空機部門の有力な協力会社の一つとなっているのである。

【脈々と技術の奔流】

現在、同社を率いるのは二代目の和田典之社長である。

工場を兼ねた社屋は、名古屋駅周辺の市街地にあって、意外と閑静な佇まいを感じる一角にあった。真っ直ぐ二階へ上がり、事務所を抜けて応接室で典之社長と対面した。スーツではなく作業服という社長の出で立ちからは、常に現場に立って指揮を取っていることが伺える。これまで訪問してきたトップに共通した技術者の気風のようなものを、今回も感じることができた。

部屋の壁面には、H-IIロケットが今まさに宇宙へ向けて飛びたたんとする決定的瞬間を捉えた写真が飾られている。日本の先端技術の多くは、大企業と中小企業との共同開発、共同製作、つまり合作なのだ、と言う話をどこかで聞いたことがあった。

WADAには、今も技術という奔流が脈々と流れ続けている。ここは、紛れもなく最先端の航空宇宙に関わる仕事に携わる会社であると実感した。

さて、今回はどのような話になるか、興味がわいてきた。